誰もうけとめられなければ
2021年 12月 24日
秋から、お教室に0歳児を連れてくる利用者がいて、私はその親子が来る日はなんとなく気持ちが明るい。離乳食と聞けばバナナやお芋をふかしたものを頼まれてもいないのに、用意する。赤ちゃんを見て思うのは、本当に受け止められなければいられないということだ。食べることも出したものを処理することも、泣く理由も、もちろんお着替えも。みんなみんな。受け止めてくれる人がいなければ成り立たない。
いつだったかこの0歳児と並んでソファに座っていると、不意に動いてごつんと音を立てて落ちていった。幸い下には羊毛で作ったラグが敷いてあり、ソファもそれほど高くなかったので事なきを得たのだが、落ちる途中に私の右足に当たった。2月にケガして開放骨折のために折れた方の足だった。一瞬のことだったし、予期できても私の足もまた、受け止められなければここまで来ることができなかったほどの損傷だったので、びっくりしたのだが、ああ、私も50歳を過ぎて赤ちゃんみたいな1年を過ごしてきたなと振り返った。
食べることは両腕が使えたので問題なかったが、出したものを処理することも、夜中に痛くて泣いてしまうようなときにナースコールを押してしまうことも、お着替えも、歯磨きもナースやヘルパーさん、理学療法士や医師にすべてを受けとめられなければ、私はここまで来ることができなかった。
いや。転んで骨が折れたとき、山の中でいちばんそばにいた息子や友だち、たまたまそこを通りかかった見知らぬ人たちが、救急車を呼び、励まし続け、体が冷えていくだろうからと温かいカイロを手渡してくれた。駆け付けた救急隊員たちも慎重に体を運んでくれた。受けとめられなければ、自分の意志ではなにもできない。そんな体験だった。
今日はクリスマスイブ。救い主であるイエス・キリストの誕生を喜び礼拝をささげる。
神の子であるイエスは、赤ちゃんの姿で生まれた。受けとめられなければいられない姿で。マリヤに抱かれ布にくるんで飼い葉おけに寝かされる。それは、受けとめられなければいられない人間と同じ姿で、その痛みにその苦しみに寄り添うためなのだろう。そこには特別なパワーはない。むしろ丸腰。いや、丸裸。布にくるまれているだけ。そうでなければ、救うことができない人たちがいるのだ。
今日、受けとめられなければいられずにうずくまっている誰かの心に、光であるキリストが宿りますように。