ことりたちは
2011年 04月 20日
なにしろ小さいものが好きなのだ。だから、小さいものに目をとめられるかみさまがたまらなく好きなのだと思う。大きいものは、目をとめなくてもきっと目に入るだろうけれど、小さいものはほんとうにじっと見つめて、飽かず眺めなければ、その実態を知ることができない。野バラのように。
まあね、大きいものでもわかりにくいものもあって、結局は大きさではないと言われれば、「ほんとにそうだね」と同意するしかないから、くどくどと小さいものについて語るのは不粋だとわかっているのだけれど、小さいものを知らず知らず弁護したくなるのだから仕方ない。
ことりたちは ちいさくても おまもりなさる かみさま
小さいものはそうです。まもられる存在だからきっと好きなのだ。しかもかみさまに。
わたしたちは ちいさくても おめぐみなさる かみさま
こうなると、物理的な大きさではなくなる。
わたしたちの心が小さいときはある。どんなに大きな人にも。
わたしたちの誰かへの気持ちがもしかしたらほんのちょびっとしかないときもある。それでも、お恵みくださるかみさまというのはほんとうに心づよい存在。
もう天国に帰ってしまったひとりの友だちは、大きくなれない障害を持っていた。今も小さいままきっと天国でかみさまからたくさんのお恵みをいただいていると思う。
うたのこえは ちいさくても よろこびなさる かみさま
レッスンをしていて、どうしても声がいつものように出ないという人がいる。
子ども礼拝の賛美歌も、初めて歌うときは小さい声しか出ない。小さなお友だちは言葉もわからないけれど、口を一生懸命動かしている。
そんなうたをよろこんでくれる人がいるって、なんて幸せなんだろう。
わるいことは ちいさくても おきらいなさる かみさま
ごめんなさい。見逃してください。としかいえない。
かみさまが怖くなる。「おきらい」なさるのかしら。かみさまは。人のことをとっても愛していらっしゃるのだから、おきらいにはならないと思うのだけれど。人ではなくて、悪いことをお嫌いなさるということかしら。存在は受け入れるけれど、行為は受け入れられない、ということかしら。でも、それなら人にでもできるのではないだろうか。わたしはかみさまではないから、かみさまのご事情はわからない。
でも、あえていうなら、「悲しみなさる」のではないかと、歌うたびに思う。自分が好きな人が悪いことをしていると知ったら、やっぱり悲しい。
かみさまのこと、悲しませたくはないから、なるべく悪いことはしたくない。でも、とってもいつも悲しませてしまっている、きっと。
ごめんなさい。でも、それでもお恵みくださる。
ありがとう。かみさま。
矛盾だらけで、自ら苦しんでしまうわたし。
今度の日曜日24日は、イースター。イエスさまの復活が、本当に、本当にうれしい。
今は受難週の真っ最中。これから教会にお祈りに行こう。
イエスさまが今も、わたしといっしょに苦しんでくださっていることを覚えて。