大濠公園花火大会

昨夜は、大濠公園の花火大会だった。

一度、公園に行って近くで観たいと思うのだが、ものすごい人ごみだと聞くと気持ちがひけてしまう。

結局、昨夜も住んでいる集合住宅の屋上から観覧することにした。でもただ屋上に行くだけじゃお祭り気分にならない。
せっかくだもの。楽しまなくちゃ。集合時間10分前にパイナップルのくしざしを作り、ビールをクーラーボックスに入れ、クラッカーとチーズをバッグに詰めて屋上へ。

私たちが座りこんでしばらくして花火は上がり始めた。人ごみもなく、住人がぱらぱらとやって来るだけだから、気兼ねなく楽しめる。しばらくすると子どもたちもやってきて、花火よりもうるさく騒ぎ出した。
私は夜店のおばさんのように、子どもたちに群がられ、餌付けしているようだった。


遠くに見えるけれど、大輪の花火。ニコちゃんだったりハートだったり土星みたいだったり。
でもやっぱり、真白の菊の花びらのような花火は、胸に迫ってくる。きれいだった。
上空にはお月さまも。テレビ局のヘリコプターも。上から見る花火はどんなものだろうねえ。


1時間30分もの間、花火は上がり続けた。気づけばみんなが食べたり飲んだりしている。いっしょにいるけれど、みんなの意識が花火に集中していて、顔を合わせては少し照れくさくて話せないことでも、暗闇と花火のおかげか楽しく飲んで食べてしゃべっていた。

登山もそうだと思うが、共通の目標みたいなものがあると、それほど気心知れていなくても楽に打ち解けられるものだ。

と、油断した私はふと、思っていることを口にした。

「こうもきれいだと、流れ星ではないけれど願い事をしたくなるなあ」

すると隣の人が、「花火に?はかないよ。願い事をするほどではない」みたいなことを言う。

んー、そういう意味ではないんだよねえ。と思ったけれど、言い返さなかった。

私が言いたいのは、美しさとか大きさとか季節の息吹のようなものは、自分の悩みや存在の小ささを思い出させて、そして、もっと雄大な存在へと気持ちを向けさせてくれるということが言いたかったのだ。

そして、雄大な存在はこんなに小さな私を見ていてくれるという安堵から、心がほどける瞬間が訪れることがうれしかった。
久しぶりに、「こっちにおいで」と大きな空に呼ばれるような感覚が気持ち良かったのだけれど、彼女の言葉に、なんとなく水をかけられた気分になった。でもね、それはしかたがないのです。
同じものを見ていても視点は違うのだから。

私の世界は水をかけられて消えるようなものではなく、そのあとも色々と考えた。

どういう存在が、私を広くて大きな場所にひっぱってくれたっけ?

毎朝歩く川べりの風景。
夜空に輝く月。
夜に眺める海の水面。
湧き水。
山の緑。
滝。
大きな人。心が。
自分の世界を大事にできている人。それは、神さまが与えてくれたいのちを、とても大切に慈しんでいるみたいだから。人のことではなくて、自分に与えられた恵みをちゃんと受け止めていられる人は素敵だなと思う。そういう人に出会うと、顔がゆるんでくる。
食べ物。
動物。
絵本。

これまた個人的な感情なのだけれど、これらは、「ああ、神さまは私にこれを用意していてくれたんだ」と思えるモノやヒトなのだろうな。
そういうリストを、打ち上げられる花火を見ながら少し思い出していたら、それだけで幸せな気持ちが静かにやわらかに心に満ちてきた。

「また来年」と言った後に気づきました。
3月には、屋上にいた人たちのほとんどがここを去ります。
隣の人も。

よかった。いっしょにいい時間が過ごせて。

花火ははかないけれど、いっしょに過ごした時間はきっといつか、懐かしくてあったかい気持ちをよみがえらせてくれるだろうな。
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by kakunobue | 2012-08-02 21:00 | 日記 | Comments(0)

かくのぶえ フリーライター 日記・エッセイ・詩・イベント情報・こどもメッセージ集。


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