食卓への思い
2012年 12月 19日
食べることが好きなのだからそう言われてうれしくないはずはない。
ただ、食べることが好きだからといって、なんでもいいかといえばそうでもないし、誰とでもいいかといえば、これまたそうでもない。
昨日、兄夫妻と義姉のお父様といっしょに食事した。
兄夫妻は教会のメンバーと一緒に老人ホームを訪問して、聖歌隊の賛美とハンドベルの演奏をしてきたところで、ほっとした表情をしていた。お父様は前回お会いした時よりも、すこし顔色がよくて、落ち着いた雰囲気だった。私はバイトが休みだったのでリラックスしていて、家族の安堵感に満ちた時間だった。
兄が隣にいるだけで、私は小さな妹にすぐになれる。
いつもはどんなにリラックスしても緩まない細胞が、ホーっと安らいでいるのがわかる。この人は、私がどんなにダメでも、どんなに小さくても、大丈夫と受け止めてくれると、心だけでなく体も感じているのだ。
兄は兄で、毎日忙しくしていて、ゆっくり食事を味わうのは久しぶりだと、ものすごくリラックスしてお皿をきれいに平らげていった。
義姉はそんなにおしゃべりな人ではないけれど、「おいしい。大満足」を繰り返していた。
幸せな食事というのはこういうのだろうなと思う。
普段はそれぞれに仕事をしていて、ギリギリのところを走り回ったり、頭を下げたり、落ち込んだり喜んだりして過ごしていて、だけど、好きな人といっしょの食事は、肩書きも仕事も役割もなにもかも放り出して、本来の自分に戻れる。
家族、友だち、恋人、仕事仲間など相手は人によるだろうけれど、私はそんな時間を食べることによって体に刻むことができるのは幸せな食事なのだと思う。
1年か2年に1度、一緒に食事をする友だちがいる。
たまにしか会えないのと、相手も食べることが好きなため、昼からワインを飲みながら時間をかけてコース料理をいただくこともある。たまにしか会えないとは言え、会うたびに食事をしていると、大体のお互いの好みがわかってくる。
食前にはシャンパンかビールを飲むし、友だちは料理に合わせてワインを選び、私は気まぐれにお店のお薦めをいただいたりする。
そして私だけはきちんとデザートをいただく。
ここでいつも相手は笑うのだ。
「またものすごい集中力で見つめてますよ」と。
自分ではまったく気づいていない。
この幸せな時間を一粒たりとも残したくないし、全部全部体に入れて、大切な記憶にしたいという思いが、表情にでているのかもしれない。
ソルベよ、私の舌でとろけて体に染み込みなさい。
フルーツよ、今、今年一番のおいしさを知らしめなさい。
そして私の中で幸せの実を実らせなさい。
今度はそんなおまじないをかけてから食べてみたいものである。